こだわりの家づくり


現場も設計も営業も全て経験し、35年かかって、
やっと「気持ちいい家」が造れるようになりました

ゴミとの格闘が、私を成長させた

私の家は、3代続いた地元の不動産会社です。育った家は、歴史を感じさせる古い家で、柱や梁は丸見えで、黒光りをしていました。床は杉板、壁は漆喰、窓は木製のガラス戸に、杉板の雨戸といった具合でした。私は、その家が大好きでした。

そんな気持ちが、私を建築の世界へ導いて行ったのだと思っています。

大学は、建築を専攻しました。卒業後、都内の建築会社に勤務しました。会社に入って最初にやらされたのが、研修と称した「現場のゴミ」の回収作業でした。

2tトラックを運転し、現場とゴミ処分場を1日に3回も4回も往復しました。ところが、単純なゴミ片付けでも、その作業を通して、現場の流れ・監督の段取りの良さ悪さ・職人さんの人となり等が、不思議なほど見えてきたのです。

そんなゴミとの格闘が半年続き、やっと助監督に昇格。1年後には、晴れて憧れの現場監督になり、現場の管理を任されるようになりました。

昭和52年当時は住宅建設が盛んで、仕事に慣れるに従って、担当現場の数が、どんどん増えました。常に7~8棟にも及ぶようになり、毎日、朝は7時から夜は10時過ぎまで働かないと、追いつかないほどでした。

体力の限界、自分に負けました

そして、ついに担当する現場が10棟を超え1年が過ぎた頃、段取りをミスしたり、頻繁に忘れ物をし、仲間に迷惑をかけるようになっていました。

現場のことを考えると中途半端に手を抜く事が出来ない性格もあって、必死に頑張っていたつもりでした。しかし、休暇を取ることも出来ず、自分自身を上手くコントロール出来なくなってしまい、身体は疲労の限界に達していたのです。

「家に戻って来ないか」と両親から電話が有ったのは、そんな状況の、私が建設会社に入社して4年目の夏の事でした。

私は、「もっと頑張って上を目指したい気持ち」と、もうどうにも調整出来ずに「楽になりたいという気持ち」が混在していました。そして、色々悩んだ末、「楽になりたい」気持ちが勝ってしまったのです。

会社や同僚の仲間には大変迷惑を掛けることになってしまい、今でも申し訳なかったと思っています。そして「自分に負けた」「逃げてしまった」ことを今でも後悔しています。

再び、建築の世界へ

実家に戻った私は、家業の不動産業を手伝いました。主な仕事は、貸家と土地の仲介でした。しかし、その頃の私は、どうしてもその仕事に馴染めませんでした。

それは、自分の「家づくりに対する想い」が捨てきれなかったからなのです。私は両親には内緒で、必死で、一級建築士の勉強をしました。そして、宅建の取引主任者の勉強もし、2年で両方の資格を取得しました。

そして、ついに、両親が猛反対する中、再度建築の世界へ飛び出して行ったのです。

新聞の求人広告で見つけた設計事務所に応募しました。そして2時間かけて渋谷の事務所まで通いました。毎日9時過ぎないと、仕事が終わりませんでしたが、それでも、設計の仕事に携われることは幸せな気持ちで一杯でした。

しかし、上司が「今日は終わろう」という前には帰れない習慣があったので、家賃の支払いは厳しかったのですが、通勤時間短縮のために女房と相談し、親元を離れて家族3人で賃貸アパートに暮らし始めました。それ位、腹をくくっていたのです。

設計事務所が解散、また求人広告探し

私は、一級建築士を取得したものの設計の実践は乏しく、直ぐには役に立ちませんでした。その時ほど、一級建築士の資格が重荷になったことは有りませんでした。しかし、有難いことにそこでは一から実習させて頂きました。

3年が過ぎ、やっと現場の設計監理まで任されるようになりました。いよいよこれからと言う時に、なんと、その設計事務所は経営不振により解散に追い込まれてしまったのです。

先輩からは、「新しく設計事務所を立ち上げるから一緒にやろう」と誘われましたが、断りました。それは、今回の事で「自分に営業の能力が少しでも有れば、お世話になっていた設計事務所にも何か力になれたのかもしれない・・・。営業力を身に付けなければ!」と感じたからです。

私は、住宅営業を経験することを決意しました。

すでに現場監督時代からの貯蓄は底をつきかけ、経済的には不安でしたが、女房の「なんとかなるから頑張ろうよ。困った時は私も働くから」という言葉に勇気づけられ営業の世界へ飛び込んで行きました。

しつこくない営業のはじまり

勤務先の住宅会社が決まり住宅展示場に配属された私は、そこで早速営業の厳しさを嫌と言うほど思い知らされました。

来場されたお客様への夜討ち朝駆け、他社メーカーとの競合・相見積もり、百戦錬磨の競合相手に対し、経験のない私は、断られても幾度となく挨拶訪問を繰り返し、いつしか信用を得るという方法でしか道を切り開くことが出来ませんでした。

しかしそれが、私の「しつこくない営業スタイル」の始まりとなり、不思議と仕事を頂けるようになっていたのでした。

納得できません、辞めます

住宅展示場での朝礼は月末の契約決意の発表から始まります。
当たり前のことですが、契約が上がらなければ会社は存続できませんし、私たちも給料を得ることが出来ません。

成績が上がってくると会社はそれが当たり前の事になりますし、それ以上を要求します。
私も当然のように要求されるようになって行きました。

そして、それが自分のスタイルを崩すことになり、いつしか信頼を得ていたお客様にも「しつこい営業」を行っていたのでしょうか、キャンセルが相次ぐことになってしまいました。

「とにかく、お客様の都合は二の次、月末に契約を押し込む」という会社の考え方に納得できず、いよいよ自分の夢を叶える時が来たと考え、入社後4年目の冬に住宅会社を退職しました。

建築会社の起業、そして私の「いい家」

現場監督を経験し、住宅設計を学び、住宅営業も経験した私の10年間の修行は終わりました。いよいよ、私の理想とする「家づくり」をスタートさせる時です。

地元に戻り「(有)佐藤ホーム」という建築会社を立ち上げ、注文建築や分譲住宅の仕事を開始しました。バブルの弾ける3年前のことですから受注も堅調に推移して行きました。そして、「もっといい家を造りたい」という想いが大きくなっていったのもその頃からでした。

色々な工法を検討した結果、ある工法にとても魅力を感じて入会しました。しかし、今から思うと初期のその工法は、ほとんどが実験ともいえ、問題が出たことに付いて改善して行くと言った感が否めませんでした。

実際に私が建てた家でも白蟻が発生し、お客様に多大なご迷惑をおかけしてしまいました。

修復する1階部分は全て一時的に引っ越して頂き、床や壁を剥がし、白蟻が進入しないようにする工事を行いました。500万円かかった費用は全て、自分で負担しました。そんな失敗をしながら、私の「いい家」の考え方が少しずつ固まって行ったのです。

「いい家」は、それが先でしょ!

高額な機械装置を設置する前に建物本体の断熱性能を高めることが必要です。

それが先です!

当時、ある工法を取り入れたのも「省エネで暖かい家」を実現するためだったし、「何処にいても温度差を余り感じない家」を造りたかったのです。

やっと「いい家造り」が「形」になりました

代表取締役 佐藤 英雄
代表取締役 佐藤 英雄

住宅金融公庫の省エネルギー基準も厳しくなり、住宅の高断熱化が始まり高気密化が追随して行ったのはその後の事でした。

そして、マスメディアにシックハウスが登場することになって行きました。

私の「いい家」の考え方に「冬暖かい家」の他に「シックハウスにならない安心な家」が追加されました。

シックハウスは住宅の高断熱・高気密が生んだ産物です。
そのために国は建築基準法を改善し、建材への化学物質使用量を抑えることと、計画換気を義務づけることにしたのです。

私にはちょっと納得が行きません。
少しであれば化学物質が放出される材料を使用しても良いが、必ず換気扇で家の空気を入れ換えること。

しかも、24時間換気扇は廻りっぱなしです。

はじめから化学物質を含まない自然素材の建材を使用すればいいではないですか!

自然素材はシックハウスにならない安心な空間が出来る他に、夏の蒸し暑い時は湿気を吸着し、湿度を下げる効果が生まれ、室内を涼しく感じさせてくれます。また冬の乾燥している時は過乾燥にならないよう湿気を放出してくれます。

「内装材に自然素材を使用すること」、床は無垢の木の床、壁や天井は漆喰や珪藻土塗り又は、和紙や無垢の木を貼って仕上げること。

「断熱性能を高めることと、内装材に自然素材を使用し、夏涼しく・冬暖かい家造り」が私の「いい家造り」の形となりました。

私は断言します。

手足が触れるような身近な部分や、毎日寝起きをする場所には家族がシックハウスにならないように、安全な自然素材を使用すべきなのです。

どのご家庭でもそうですが、特に小さな子供達がいらっしゃるご家庭は大事なことです。
そうすることが子供を育てる親の愛情だと考えます。

追伸

不動産会社の3代目として生まれ、建築の世界一筋に突き進んできた私の人生ですが、15年続いた「佐藤ホーム」は、佐藤不動産と統合しました。すでに3代目に就任して7年が経ちました。

しかし、私の原点は、やはり「家づくり」です。

生まれ育った「古い家」と同じく、私は、風通しが良く、調湿性が有り、健康に配慮した夏涼しく・冬暖かい快適な家、つまり「気持ちいい家」が造りたいのです。

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